新聞配達の想い出

真氣の会、ささき整体施術院の事業が軌道に乗る前、新聞屋さんでアルバイトをさせていただきました。今を去る事数十年前の中学一年の夏から約一年間やはり新聞配達をした事があり、今回の新聞配達と会わせ当時の事を懐かしく思い出しました。
以下に、新聞配達の思い出、中学時代の事を振り返り思い出した事を書きます。(随時更新)
また、ささき整体施術院の創業時、チラシや広告などに格別のご高配を頂いた愛媛新聞エリアサービス宇和島中央の近藤専務はじめ社員の皆様に深く感謝申し上げます。ありがとうございました。


              再び新聞配達を始める
21世紀が明け、「えひめ丸事件」に世間の耳目が集まっている中、新聞配達のバイトが決まりました。
真氣の会の仕事が軌道に乗らず、資金不足からやむなく副業を持つ事になりました。中学時代、結構辛い思いをしたので絶対にこの仕事だけはしたくないと思っていましたが、さて40過ぎてこの不況時にこれと言って仕事の当てがあるわけではないので悩んだ末、タウンページを見て片っ端から新聞販売店に電話して見ようと思いました。
運良く、一番始めの電話ですんなりと仕事が決まりました。しかも通常の配達より収入の見込まれる「チラシ折込、代配(休んだ配達員の代わりに配達する業務)」の仕事を貰える事になりました。
就業時間は午前2時30分から6時まで、早起きにいささか心配でした。学生時代はこれで苦しみましたから・・
不思議な事に、一年を超えるアルバイト期間中一度も「眠い、だるい、休みたい」と思ったことはありませんでした。
楽ではありませんでしたが、良い人達に恵まれ充実した時間でした。


                         私が新聞配達を始めた訳

中学校の時、新聞配達をしようと思ったそもそもの動機は、単純なようだがラジオが欲しいと思ったからだ。ラジオと言えば今は何かの景品で貰ったりして、安価なイメージがあるが、あの頃約一万五千円位はしたと思う。
30年ほど前だから、親に買ってくれといって、「はいはい」と買ってくれる親は、「ちびまるこちゃん」に登場する「花輪くん」並のおぼちゃまでなければ望むべくもない。
なぜラジオが欲しかったかと言うと、「深夜放送」を聴くためだった。「オールナイトニッポン」などをやってる全国区のラジオ番組を聞く為には、ニッポン放送など遠い放送局を受信する必要があり、受信能力のある性能のよいラジオが必要だった。
その頃は同年齢の人の間ではまだ話題になっていなかったが、深夜放送を聴く為のりっぱなラジオは若者のステイタスシンボルだった。少し自慢になるが私はこう見えても?常に時代の先頭を走っていた(と、思っている)(笑)
当然の事ながら親に「不良になる!!」と言う、子供としては納得がいくはずの無い理由でにべも無く買ってもらえずそれでも諦める事ができず、かくて熟慮?の果て、すでにバイトを始めていた同級生の紹介で、夏休みの直前くらいから始める事になった。たしか給料は4千円くらいだったと思う。今の物価からしたら安い額だが、(コカコーラ200mlが35円、たばこセブンスター、ピースなど100円、国鉄(JR)初乗り30円くらいか?)当時の中学生としては、とんでもない「高額所得者」で「校内長者番付」があったとしたらおそらくのベストファイブにはランクされていたであろうと思われる。かくて私の一年余に及ぶバイト生活が始まる事になる

              当時の朝の風景(1972年頃)

私が当時お世話になった販売店が扱っていた新聞は、今はもう廃刊になっている地方紙である。紙にして2枚で8ページ、折り込み広告も少なく100部ほどでも自転車のカゴに楽に載る量であった。月極め購読料が500円で休刊日は三日程度でほとんど無休。交通事情のため中央紙は朝7時頃しか販売店に到着しない時代だった。
私が担当した区域は市内の中心部で、朝6時になるとお城山のサイレン(童謡や唱歌のBGM)がうるさいほどよく聞こえた。町の人はみんなびっくりして目を覚ますのでは?と思われるほどでこれには驚いた。朝早いので(5時台)人通りもほとんど無かったが、毎朝必ずと言って会う人がいた。
その人は、今はもう亡くなったらしいが、夏でも厚いドテラのような物を着ていつも傘を小脇に抱えている、しかし雨が降ってもその傘をさすことは、決してなかった。毎日商店街を行ったり来たりしていたので市内では知らない人がいないほどの有名人であった。一年間ほとんど毎日すれ違っていたが、お互い話をする事は無かったと記憶している。
後、新聞少年の間で伝説の配達員として長く語り継がれた片腕の配達員さんがいた。
この方は、片腕を無くしておられるのに元気に自転車をこいで、かなりの量の新聞を配達していた。子供心にすごいなと感心した。新聞配達を止めてからはお見かけする事は無かったが、最近新聞の集金にご本人ではないかと思われる人を見かけたという話を聞き、懐かしく往時を思い出したものである。
今のように朝早くからウォーキングをしている人とかはあまり見かけなかったように思う。新聞や牛乳配達などの「働く人」だけが早朝の町の登場人物だったようだった。時々「〇〇〇歩こう会」といったタスキを掛け、グレーの背広に白のトレパン(今はほとんど見ない木綿製)つばの広い帽子という、まるで当時の陸上競技大会の役員というスタイルのいでたちの20人くらいの団体さんが歩いているのを見かけた。これが今では「早朝ウォーキング」という、結構メジャーなスポーツ?になるには、その後20年以上の時を待たなくてはならなかった。(つづく)


                お金を拾う

「早起きは三文の得」とはよく言ったもので、配達を始めてからすぐの夏休みに、サイフを拾った事がある。
お城の周辺の旅館(ここの玄関の竹の柵をこすって音を立てながら歩いていると、突然中から犬が吠える。これを知らない友達を騙して竹の柵をこすりながら歩かせ、びっくりさせる・・そう言うイタズラが子供の間で横行した、今もたまにスナックなどで見かける「ハブの卵入り封筒」の原型かも?)の前の道路で、黒い小銭入れが落ちていた。「小銭入れ」と言うからには小銭しか入れないのかと思ったが、中を開けてみるとなんと、1000円札がびっしりと入っていて驚いた。
「ラジオを買う」という、大いなる野望を胸に秘めた私は「目的の日が大きく近づいた!!」と神の恵みに思わず感謝しそうになった。
しかしそこは思い直して、新聞店のご主人や家族と相談して、配達終了後、警察署に届け出に行った。
今は営林署を経て病院になっている場所に、当時の警察署が建っていた。その日は日曜だったようでおまわりさんが一人しか居なかったのを記憶している。書類に金額やお金の種類サイフの色形など結構面倒な事を書き込み、半年後落し主が現われない時は拾い主の物になる事、その後数ヶ月拾い主から申し立てが無い場合は県の収入になることなどが説明され、一枚の書類を渡された。
警察署はその年の秋、ずっと離れた国道沿いに移転が決まっていて既に工事に着工していた。ゆえに私の物になった場合、その新しい庁舎に受け取りにいかなければならないので、両親に場所を教えてもらいその日に備えていたのだが夏休みが終わってすぐの日、市内の高校生が落とし主と名乗り出て一件落着となった。私には謝礼として一割のお金をもらう事になり、思いがけぬ臨時収入に喜んだ。
そしてなぜかその後、何度もお金を拾う機会があって、(最高で七万入り封筒を拾う)そのたびに警察に届けた回数は現在までに10回を超えている。ある意味で「お金に縁のある人生」なのかも知れない(笑)


                 大敵

新聞配達にとって、一番イヤな物は誰に聞いても「雨」である。その理由はあたりまえの事ながら「新聞が濡れる」からである。現在はビニールフイルムで包んでしまう機械があって、雨天には全部包んでしまう販売店もあるそうだ。(便利この上ないが資源の浪費とゴミの増大になり、決して推奨できるものではない)小雨ならともかく、台風でも来た日は新聞が濡れてしまい、本当に困った。
雨の日はビニールに包み持ってでるのだが、私は雨の日の初日で販売店の前の道で落っことしてしまい路上に新聞が散乱してしまった(ノ゚ο゚)ノ オオオオォォォォォォ-
すぐに拾い上げたが数枚はびしょぬれになり交換しないといけなかった。
私が途方に暮れながら新聞を拾っている側で2つ年上の先輩配達員に罵声をあびせられたいやな思い出は30年たった今でも耳に残っている。
彼は陸上部の先輩であった。後輩思いの優しい先輩が多い陸上部で唯一いやな人だった。
私は幸いというか、アーケード街の多くを配達区域に持っていたので、雨風を防げて、照明もあり時計もあり今思えば恵まれていた。また今なら雨の日は「新聞が濡れている」という苦情がよく寄せられるが、私の場合は一度も苦情を頂く事は無かった。おそらく当時は子供が配達をしているのが常識だったので、新聞配達員に対してはやさしく見守っていてくれたように思う。新聞配達の苦情で一番を占める「不配」(新聞を配達するのを忘れる事不着とも言う)も新聞店に直接苦情を言うので無く、ポストにメモ書きしていたり、集金の時そっと教えてくれたりする人もかなりいた。
それに対して、あたりまえというか、商店の人はかなり厳しかった。集金の時にあれこれと苦情を言われ、「もう新聞やめるよ!」と言われた事もしばしばあった。その中には少数ではあるが子供心にも理不尽と思われる事例もあった。新聞店のご主人と奥さんにその事を話したら、「色々な事を言う人がいるからねぇ」としみじみ言われた。
12歳にして、素直に「申し訳ありません」と謝る事を覚えたのも、その後社会に出て少なからず役に立ったように感じるまた、現在の仕事で「相手の気持ちが分かる」と言う事でも多いに役に立っているような気がする。
色々怒られたこともあったが、当時は今より大人は子供を優しく見守っていてくれていたし、子供も大人を信頼していたように思う。大人になった今の私は、当時の大人ほど、優しく子供達を見守る事が出来るだろうか・・

                      地図

新聞の仕事をしてて気がついたのは、配達員の多くが「地図を正確に見られない」と言うことだった。
地図は真上からの投影で、普段の目線は横なので平面を立体に置き換える事が、苦手なのかと思う。
道理で、いくら詳しく地図を書いても、「道が分かりません」と電話を掛けてくる人が多いはずだ。

本社からは「入れ」「止め」(配達の契約や解除)の連絡は、住所と地番、世帯主名のみなので、地図を理解できないと正確に伝えることが出来ない。「まず、〇〇さんの家を右に曲がって・・」「〇〇さんと言われても、いちいち表札なんか見てないので分からない」(おいおい・・・
「大きな黒い犬がいて。。」とか「赤い4WDの車が止まっている・・」ようやく理解してくれたかな?と思っても念のため後で確認に行ったらやっぱり間違えていたりして・・

「あいつの説明は、ちっとも分からん」

(゚Д゚)ノバシィィィィィィィィ 

と、色々と大変でした。

              早朝に行動する人たち

我々配達員以外に、早朝(深夜?)おきてる人たち。隣にコンビニがあったので良く色々な人が集まってきてた。

★水商売のおねーさん。(たまに新聞を買いに来る)

★暴走族のおにーさん。(夏季限定)

★夜遊びちゅの中学生(コンビニでよく立ち読みしてた。1人バイトない?と聞きに来た)

★釣りに行くおぢさん。(橋を渡って、県外からも)

★痴呆症のおばーさん。(コンビニのおにーさんと協力して、おまわりさんに保護してもらいました)